名古屋への強制送還を思う

名古屋への強制送還は予定通り2009年3月頃実施されそうだ。そんな空気が本格的に漂ってきた。それでもどうにかしてこの流れを断ち切れないかと今まで考えたりした。2008年2月に名古屋を脱出した際には、二度と名古屋に行きたくないという話を同期や友人以外には出さなかったが、確か夏ぐらいには東京に残り続けたいという希望を直属の先輩に語り、冬にはとうとう課長に直訴することとなった。課長には「将来は、」というのを前提に、早急的な東京居住はやんわりと拒否された。あのうちひしがれた感覚が今でも心の中で鮮明に残っている。「やはりこれは無理がある申し出か…」と思うと同時に「やはり…でもそれは受け入れたくない」という現実と欲求。自分では分かっているのだが、それでも分かりたくない、分かってたまるかという不満。とはいえ今ここを飛び出したところで飯が食えないのは明白。自分が一番分かっていることだろう。
そんな渦巻き続けた大きな不満もとあることで少し雰囲気が変わる。不満が決して納得に変わったわけはない。絶望が不満を隠そうとしたのである。
1月19日(月)に消防設備の点検があった。この件を機会に17・18日の土日は部屋を掃除していたわけなのだが、そこではたと気づいた。いや、厳密には気づいていたのだが、いやがおうにもそれが契機にはっきりと気づいた。
「そういや、引っ越しのために片付けていかないとな…」
なんのことはない。それだけのこと。紛れもない事実である。遅くとも3月末には名古屋へ強制送還される。そのためには引っ越しが必要。当たり前だ。
それでも、それでもこの絶望はなんだろうか。名古屋を脱出して何か気分の違う日々。その一方で、名古屋との二重生活で支出は増えた。支出は増えたのに住居は前より不自由になった。寮だから当然だ。それでも東京に居れることは純粋に嬉しかった。周囲にも「寮だけどやっぱ東京にいれるからね。お金かかってもそっちのほうがいい。」とよく漏らした。今住んでる23区のはずれは当初の目的の横浜ではない。それでも関東にいることは変わりない。今ではここでもいいかな?と思えるほどになった。…そんな生活にもピリオドを打たねばならないという事実。名古屋に行くからと行って死ぬわけじゃない。そりゃそうだ。東京にいるからといって年柄年中東京で仕事できるわけじゃない。何かイレギュラーなこともあるかもしれない。それも間違いない。それでも東京をメインに出来るということはやっぱり自分にとって大切なこと。これが自分のスタイル(笑)であって名古屋をメインにというのは到底納得がいかない。
2007年8月25日、羽田空港の搭乗ゲート前で涙ぐんだあの日*1。期間限定という前提で、東京に舞い戻った2008年2月6日。
2009年3月に強制送還された後、次のターニングポイントはどこでやってくるだろうか。

*1:羽田→関空→実家(大阪)で2泊→名古屋と移動したため。